ロンジェビティは医療費を削減できるのか?──老化速度の抑制が社会と経済にもたらす可能性

老化への取り組みは、個人の健康を超えた社会の課題へ
日本は、世界でも類を見ない超高齢社会を迎えています。
医療技術の進歩によって長く生きられるようになった一方で、加齢に伴う慢性疾患や身体機能の低下、フレイル、認知機能の衰えなどは、個人の生活だけでなく、医療・介護制度や社会保障の持続可能性にも大きく関わる課題となっています。
これまでの医療は、がん、糖尿病、心血管疾患、認知症など、それぞれの疾患を予防し、早期に発見し、治療することを中心に発展してきました。
しかし近年、こうした複数の疾患に共通する背景として、身体全体に生じる「生物学的老化」そのものに注目する研究が進んでいます。
もし、老化の進行を緩やかにし、身体機能が低下する時期を遅らせることができれば、病気を発症してから治療するだけでなく、病気や要介護状態に至る過程そのものを変えられるかもしれません。
それは、単に一人ひとりが若々しく長生きするという話ではありません。
健康に活動できる期間が延びれば、医療や介護に必要な支出、働き続けられる期間、家族の介護負担、地域社会への参加など、社会全体にもさまざまな影響が生まれる可能性があります。
2026年10月12日、学術誌『Frontiers in Genetics』に、バイオマーカーに基づく老化介入が医療費や個人の経済的価値に与える影響を推計した研究が発表されました。
この研究では、DNAメチル化情報から老化の進行速度を推定する「DunedinPACE」という指標を用い、老化速度を抑制できた場合に、フレイルの進行、寿命、生活の質、医療費がどのように変化するのかをモデル化しています。
その結果、最も楽観的なシナリオでは、50歳から90歳までの40年間で、一人当たり約13万スイスフランの累積医療費削減が推計されました。
さらに、健康状態と生存期間を組み合わせた指標であるQALYも、最大5.32年分増加すると推計されています。
もちろん、これは実際の介入によって医療費が削減されたことを証明する臨床試験ではありません。
しかし、老化の進行を抑えることができた場合、個人の健康だけでなく、医療経済や社会のあり方にも大きな価値をもたらす可能性を、定量的に考えるための重要な研究です。
今回は、この研究の内容を読み解きながら、ロンジェビティが個人と社会にもたらす可能性、そして日本がこれから考えるべき課題について解説します。
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1.老化を「測定する」ことから、老化を「管理する」時代へ
──暦年齢と生物学的年齢は同じではない
私たちが普段使っている年齢は、生まれてから何年が経過したかを示す暦年齢です。しかし、同じ50歳であっても、身体機能や代謝、免疫、血管の状態などには大きな個人差があります。
同じ年齢でも、筋力や持久力を保ち、慢性疾患のない人がいる一方で、複数の疾患を抱え、身体機能の低下が進んでいる人もいます。
この違いを説明する概念の一つが「生物学的年齢」です。
生物学的年齢とは、単に年齢を数字で表したものではなく、身体がどの程度の老化状態にあるのかを、さまざまな生体情報から評価しようとする考え方です。
近年では、血液検査、炎症マーカー、代謝指標、身体機能、DNAメチル化などを用いて、生物学的な老化の状態や進行速度を推定する研究が進んでいます。
ただし、生物学的年齢を一つの数字で完全に表すことは、現時点ではできません。身体の老化は、複数の臓器や組織、細胞、分子レベルの変化が重なり合って進む、多次元的な現象だからです。
DunedinPACEとは何を測定する指標なのか
今回の研究で用いられたDunedinPACEは、DNAメチル化パターンを解析し、生物学的老化の「進行速度」を推定するエピジェネティッククロックです。
DNAメチル化とは、DNAの特定の部位にメチル基と呼ばれる化学的な修飾が加わる現象です。DNAの塩基配列そのものを変えるものではありませんが、遺伝子の働き方を調節する仕組みに関わっています。
加齢や生活環境、さまざまな曝露によってDNAメチル化のパターンは変化します。DunedinPACEは、こうした変化を複数の部位から解析し、身体の老化がどの程度のペースで進んでいるかを推定します。
一般的には、DunedinPACEが1.0であれば、暦年齢の1年に対して生物学的老化が概ね1年分進むペースを示すと解釈されます。1.0を上回れば相対的に速いペース、下回れば相対的に遅いペースを示す指標です。
ここで重要なのは、DunedinPACEが「何歳に見えるか」を示す一般的な年齢時計とは異なり、「どのくらいの速さで老化が進んでいるか」に着目している点です。
過去の研究では、DunedinPACEがその後の慢性疾患、身体機能の低下、死亡リスクなどと関連することが報告されています。つまり、現在の身体の状態だけでなく、その先に起こり得る変化を考えるための情報として期待されています。
ただし、DNAメチル化だけで老化のすべては分からない
一方で、今回の研究を理解するうえで、見落としてはならない点があります。
DunedinPACEが捉えているのは、DNAメチル化に基づく老化の情報です。老化そのものの全体像を測定しているわけではありません。
現代の老化研究では、ゲノム不安定性、テロメア短縮、エピジェネティックな変化、タンパク質恒常性の喪失、ミトコンドリア機能障害、細胞老化、幹細胞の機能低下、慢性炎症など、複数の生物学的な特徴が老化に関与すると考えられています。
DNAメチル化の変化は、そのうちの重要な一つの情報ですが、ミトコンドリアの機能、免疫系の状態、筋肉量や筋力、心肺機能、認知機能、代謝状態などを直接すべて評価できるわけではありません。
同じDunedinPACEの値であっても、筋力や歩行能力、心血管機能、認知機能などが異なる人は当然存在します。
したがって、エピジェネティッククロックの数値だけを改善することが、必ずしも身体全体の若返りや健康寿命の延伸を意味するわけではありません。
重要なのは、一つの数値を最終的な答えとするのではなく、身体の状態を理解するための複数の情報の一つとして活用することです。
今回の研究も、DunedinPACEだけで経済効果を直接計算したわけではありません。DNAメチル化に基づく老化速度の情報を、フレイルの進行や死亡リスク、医療費などの既存研究と組み合わせて、将来の変化を推計しています。
2.研究のポイント:老化速度が変わると、将来の医療費はどうなるのか
──50歳から90歳までの40年間をモデル化
今回の研究の特徴は、老化の進行速度を示すバイオマーカーと、実際の健康状態や医療経済を結びつけたことです。
研究者らは、DunedinPACEとフレイルの進行に関する既存研究、カロリー制限によるDunedinPACEの変化を調べた臨床試験、フレイルと死亡リスクの関係、フレイルの有無による医療費の違いなど、複数の研究データを組み合わせました。
そのうえで、50歳から90歳までの40年間にわたり、老化速度を異なる程度に抑制できたと仮定した場合の健康状態と経済的影響をシミュレーションしています。
50歳から分析を始めている点も注目されます。
フレイルは一般に高齢になるほど増加するため、これまでの研究や介入試験では65歳以上を対象とするものも少なくありません。しかし、老化に対する予防的な取り組みを考えるなら、身体機能が大きく低下する前の中年期から何ができるのかを検討することも重要です。
本研究は、50歳からの介入を想定することで、より早い段階から老化の進行を抑える可能性を経済モデルに取り入れています。
フレイルを、老化と医療費をつなぐ指標として使用
この研究で重要な役割を果たしているのが「フレイル指数」です。
フレイルとは、加齢に伴って身体や心の機能が低下し、健康な状態と要介護状態の中間に位置するような、心身の脆弱性が高まった状態を指します。
フレイルが進むと、感染症や転倒、入院などをきっかけに、身体機能が大きく低下しやすくなります。また、日常生活に支援が必要になる可能性も高まります。
研究で用いられたフレイル指数は、疾患、症状、障害、検査異常など、複数の健康上の問題を積み重ねて評価する方法です。一般的には30~40項目程度の健康上の欠損を用い、該当する項目の割合から指数を算出します。
本研究では、フレイル指数0.25以上をフレイルとする基準を採用しています。ただし、この数値は絶対的な生物学的境界ではなく、研究上の分類基準です。
では、なぜフレイルを重視するのでしょうか。
それは、フレイルが単なる高齢者の身体状態を示すだけでなく、医療費や死亡リスクとも関連するからです。フレイルの進行を緩やかにできれば、医療や介護を必要とする状態に至る時期を遅らせられる可能性があります。
つまり、今回の研究では、DunedinPACEによって推定される老化速度と、フレイルの進行を結びつけることで、分子レベルの変化が将来の医療利用にどのような影響を及ぼし得るかを検討しているのです。
3つの介入シナリオを設定
研究では、老化速度の抑制効果が異なる3つの仮想的な介入シナリオを設定しています。
その基礎となったのが、CALERIE試験です。CALERIE試験は、健康な成人を対象に、一定期間のカロリー制限が身体に及ぼす影響を調べた研究で、2年間の介入によってDunedinPACEの低下が報告されています。
今回のモデルでは、この研究を参考に、DunedinPACEを通常の加齢に伴う推移から0.01低下させる条件などを設定し、さらに老化速度の上昇を抑える条件や、DunedinPACEを1.0以下に維持する条件を組み合わせました。
それぞれのシナリオは、CR0、CR1、CR2と名付けられています。CR2が最も強い老化抑制効果を想定したシナリオです。
ここで注意したいのは、これらが実際に40年間の介入を行った人々の結果ではないということです。既存の研究から得られた関係性をもとに、異なる介入効果が長期間続いた場合を仮定したモデルです。
また、今回のモデルの介入シナリオは、主にカロリー制限に関する研究を基礎としています。運動、睡眠、ストレス管理、薬物療法など、あらゆるロンジェビティ介入の効果を実証したものではありません。
3.健康寿命と生活の質はどれほど変わるのか
──平均余命は最大3.58年、QALYは最大5.32年増加と推計
シミュレーションでは、老化速度の抑制効果が大きいほど、フレイル指数の上昇が緩やかになると推計されました。
その結果、通常の老化と比較した平均余命の増加は、CR0で0.77年、CR1で2.89年、CR2で3.58年となりました。
さらに注目したいのが、QALY(Quality-Adjusted Life Years:質調整生存年)です。
QALYは、単純に何年長く生きられるかだけでなく、その期間をどのような健康状態で過ごせるかを組み合わせて評価する指標です。
例えば、同じ10年間の延命であっても、健康で自立した生活を送れる10年間と、重い身体機能の低下や苦痛を伴う10年間では、生活の質という観点から価値が異なります。
QALYは、こうした健康状態の違いを反映して、医療や健康施策の価値を比較するために用いられます。
本研究では、QALYの増加がCR0で1.07年、CR1で3.90年、CR2で5.32年と推計されました。
ここで、平均余命の増加よりもQALYの増加が大きくなっている点は、健康状態の改善もモデルに反映されているためです。
ただし、5.32年という数字を、そのまま「健康寿命が5.32年延びる」と読み替えることはできません。QALYは生存期間と生活の質を統合した経済評価上の指標であり、実際の健康寿命の延伸年数とは異なります。
それでも、寿命の長さだけではなく、健康な状態で過ごせる時間を評価しようとしている点は、これからのロンジェビティを考えるうえで重要です。
私たちが目指すべきなのは、単に長く生きることではなく、自分らしく活動できる時間をできるだけ長く保つことだからです。
4.医療費は一人当たり最大約2,500万円削減される可能性
──フレイルの進行を抑えることが医療費に与える影響
研究者らは、フレイルのある人とない人の年間医療費の違いを既存の医療経済研究から取り入れ、フレイルの進行が抑えられた場合に、医療費がどの程度変化するかを推計しました。
参照されたオランダの研究では、2015年時点の年間医療費は、フレイルのある人で30,792ユーロ、フレイルのない人で15,611ユーロと報告されています。
研究では、これらをインフレと購買力平価を考慮して2024年のスイスフランに換算し、フレイルの有無による医療費の差をモデルに用いています。
その結果、50歳から90歳までの40年間における、一人当たりの累積医療費削減額は次のように推計されました。
CR0では43,676スイスフラン、CR1では112,427スイスフラン、CR2では131,608スイスフランです。
最も強い介入効果を想定したCR2では、約13万スイスフランの医療費削減が推計されたことになります。
エピクロックのニュースレターでは、これを当時の換算レートで約2,500万円と紹介しています。
もちろん、この金額は日本の医療制度にそのまま当てはめられるものではありません。それでも、老化の進行を抑え、フレイルに至る人の割合や時期を変えることができれば、一人ひとりの健康だけでなく、医療費にも大きな影響を及ぼす可能性があることを示しています。
長く生きることは、必ずしも医療費を減らすことではない
一方で、この研究は、老化を抑制すれば医療費が必ず削減されるという単純な結論を示しているわけではありません。
ここには、非常に重要な論点があります。
健康状態が改善し、寿命が延びれば、その分だけ医療を利用する期間も長くなる可能性があります。フレイルを抑制することで医療費が減少する一方、生存期間が延びることで新たな医療費が発生することも考えられます。
さらに、エピジェネティッククロックの測定費用も必要です。
研究では、検査費用を1回600スイスフランと仮定し、年2回測定する条件などを検討しています。その結果、検査費用を含めた医療システム全体の経済効果は、検査価格や検査頻度、計算方法によって変わることが示されました。
実際に、研究では検査費用を考慮した場合、条件によって医療費削減効果が小さくなり、場合によっては費用が増加する可能性も示されています。
つまり、ロンジェビティの価値を「医療費が減るかどうか」だけで判断することはできません。
健康で活動できる期間が延びること、生活の質が高まること、介護を必要とする期間が短くなる可能性、本人や家族の負担が軽減される可能性など、より広い視点から評価する必要があります。
5.個人にとっての価値は、医療費削減額だけでは測れない
──QALYと支払意思額から考える健康の経済的価値
今回の研究では、医療システム全体の医療費だけでなく、個人にとっての価値も推計しています。
その一つが「支払意思額(Willingness to Pay)」です。
これは、健康状態の改善や寿命の延長に対して、個人がどの程度の金額を支払う意思があると評価されるかを示す経済学上の概念です。
研究では、最も強い介入効果を想定したCR2において、生存期間の改善に対する価値と、健康関連の生活の質の改善に対する価値を合わせると、約324万スイスフランと推計されました。
この金額は、実際に個人がその額を支払ったという意味ではありません。健康状態や寿命の変化を、一定の経済的な評価方法に当てはめたモデル上の推計です。
しかし、この結果が示唆するのは、健康で過ごせる時間や生活の質には、医療費の削減額だけでは捉えられない大きな価値があるということです。
自分の足で歩き、仕事を続け、家族や友人と過ごし、趣味や社会活動を楽しむ。こうした日々の営みは、医療費の統計には十分に表れないかもしれません。
それでも、本人にとっては人生の質を左右する大切な価値です。
ロンジェビティを考えるときには、寿命を延ばすことだけでなく、人生の時間をどのように過ごせるかという視点が欠かせません。
6.この研究から見えてくる可能性と、慎重に考えるべき限界
──今回の結果は、臨床試験で証明された医療費削減ではない
今回の研究は、老化速度の抑制が将来の健康状態や医療費に与える影響を考えるための、経済モデルによるシミュレーションです。
実際に50歳から90歳までの人々を追跡し、介入によって医療費が約2,500万円減少したことを確認した研究ではありません。
モデルは、複数の異なる研究や国のデータを組み合わせて構築されています。DunedinPACEとフレイルの関係はあるコホート研究から、カロリー制限によるDunedinPACEの変化は別の臨床試験から、医療費はオランダの研究から、死亡率の基礎データはスイスの生命表などから取り入れられています。
このように異なる集団や国のデータを組み合わせることは、長期的な影響を推計するための一つの方法ですが、結果をそのまま別の国の人口に当てはめるには限界があります。
研究者自身も、推計された絶対額は特定の国の将来予測ではなく、経済的な影響の規模を考えるための値として解釈する必要があると指摘しています。
カロリー制限以外の介入は、まだ十分に検討されていない
今回のモデルで想定された介入は、主にカロリー制限によるDunedinPACEの変化を基礎としています。
しかし、ロンジェビティに関わる要素は食事だけではありません。
運動や筋力トレーニング、睡眠、ストレスへの対処、禁煙、適切な栄養、社会的なつながりなど、日常生活のさまざまな要素が健康状態に関係しています。また、薬物療法などの医学的な介入についても研究が進められています。
これらの介入がDunedinPACEにどのような影響を与えるのか、さらに、その変化が実際の身体機能や疾患発症、フレイルの進行にどの程度結びつくのかは、今後検証していく必要があります。
今回の研究結果を、あらゆる抗老化・ロンジェビティ介入に共通する効果として解釈しないことが大切です。
フレイル指数だけでは、身体の状態を十分に説明できない
もう一つ重要なのが、フレイル指数そのものの限界です。
フレイル指数は、複数の健康上の問題を積み重ねて評価する有用な指標ですが、すべての項目を同じ重みで数えるという特徴があります。
例えば、同じ数の健康上の欠損がある人でも、それぞれの欠損の重症度や、どの臓器・身体システムに生じているかによって、将来の健康状態は異なる可能性があります。
筋力や歩行能力、認知機能、心肺機能、代謝、免疫などは、それぞれ異なる側面から健康を支えています。
したがって、フレイル指数もまた、身体全体を完全に表す指標ではありません。
本研究の意義は、DunedinPACEとフレイルを結びつけ、医療経済までの道筋をモデル化した点にあります。一方で、今後はより多様な身体機能や臓器別の健康状態を取り入れたモデルへと発展させる必要があります。
7.ロンジェビティの経済効果を、日本の未来にどう生かすか
──医療費削減だけでなく、健康に活動できる人を増やすという発想
今回の研究を日本の社会に当てはめて考えるとき、最も大切なのは、医療費削減という一つの数字だけに注目しないことだと思います。
日本では、医療や介護を必要とする人が増える一方で、働き手の減少や社会保障制度の持続可能性が課題となっています。
こうした状況において、健康寿命を延ばすことは、単に医療費や介護費を抑えるための施策ではありません。
身体機能を維持し、本人が望む形で働き続けられること。地域や家族とのつながりを保ち、自分らしい生活を続けられること。病気や要介護状態によって、本人や家族の選択肢が狭まる時期をできるだけ遅らせること。
こうした変化は、個人の生活の質を高めるだけでなく、社会全体の活力にもつながる可能性があります。
健康寿命の延伸は、医療・介護の負担を考えるうえでも重要ですが、同時に、社会参加や就労、地域活動、家族の介護負担など、医療費以外の経済的・社会的な価値を生み出す可能性があります。
そのため、ロンジェビティへの取り組みを評価する際には、医療費の増減だけでなく、健康に活動できる期間や社会参加の変化まで含めて考える必要があります。
日本に必要なのは、治療中心から予防・健康維持を含む仕組みへの発展
日本では、健康日本21や健康寿命の延伸に向けた取り組みなど、予防や健康づくりを重視する政策が進められてきました。
今後は、こうした取り組みをさらに発展させ、老化のメカニズムに関する研究成果を、予防や健康維持の仕組みにどう生かしていくかが重要になると考えます。
例えば、健康診断や生活習慣の評価に加えて、筋力、歩行速度、身体組成、血圧、血糖、脂質、炎症、認知機能など、複数の情報を組み合わせて健康状態を把握することが考えられます。
さらに研究が進めば、エピジェネティッククロックのような分子レベルの指標も、こうした評価を補完する情報として活用されるかもしれません。
ただし、現時点でDunedinPACEを一般の健康診断や医療政策に広く導入すればよい、ということではありません。検査の精度や再現性、臨床的な意味、費用対効果、測定結果に基づく介入の有効性などを検証する必要があります。
重要なのは、特定の検査を普及させることを目的にするのではなく、科学的な根拠に基づいて、より早い段階から健康状態を把握し、適切な予防や介入につなげられる仕組みを整えることです。
政策・医療・研究・産業が連携することの重要性
ロンジェビティを社会に広げていくためには、個人の努力だけでは限界があります。
研究者が老化のメカニズムや介入効果を検証し、医療者がその知見を適切な予防や診療に生かし、企業が継続可能なサービスや技術を開発する。そして行政が、科学的な根拠や費用対効果、公平性を踏まえた制度設計を進めていく。
こうした連携が必要です。
特に、老化に関する検査や介入は、経済的に余裕のある人だけが利用できるものになれば、健康格差を広げる可能性もあります。エピジェネティックデータなどの個人情報をどのように保護するか、検査結果が雇用や保険などで不利益につながらないようにするかも、重要な政策課題です。
ロンジェビティを一部の人のための高額な医療やサービスにとどめず、誰もが健康を理解し、日常の中で実践できるものへと発展させるためには、科学的な検証と社会的な仕組みづくりの両方が欠かせません。
結び:ロンジェビティは、社会の未来への投資になり得る
今回の研究が示しているのは、老化の進行を抑えることができた場合、健康状態や寿命だけでなく、医療費や個人の経済的価値にも大きな影響を及ぼす可能性があるということです。
ただし、その数字は、現時点で確立された治療効果や医療費削減の実績ではありません。複数の研究結果を組み合わせたモデル上の推計であり、今後の臨床研究や長期的な追跡による検証が必要です。
また、DunedinPACEは老化を理解するための有用な情報の一つですが、DNAメチル化だけで身体全体の老化を判断することはできません。身体機能や代謝、免疫、臓器の状態、生活の質など、複数の側面から健康を捉える必要があります。
それでも、この研究には大きな意味があると考えます。
これまで、老化は誰にでも訪れる自然な現象として、ある意味で受け入れられてきました。しかし、老化のメカニズムが少しずつ明らかになり、その進行に関わる要因を測定し、介入の可能性を検証できるようになったことで、老化に対する医療や社会の向き合い方は変わり始めています。
私たちが目指すべきなのは、単に寿命を延ばすことでも、検査の数値を若くすることでもありません。
病気や身体機能の低下をできるだけ防ぎ、自分らしく生活できる時間を長く保つこと。そして、そのための知識や方法を、一部の人だけでなく、社会全体で共有できるようにすることです。
健康に過ごせる時間が延びれば、一人ひとりの人生の選択肢が広がります。働くこと、学ぶこと、家族と過ごすこと、地域に関わること、新しいことに挑戦すること。そうした活動を続けられる人が増えることは、社会にとっても大きな価値になるはずです。
ロンジェビティは、個人が若さを追い求めるためだけのものではありません。健康に生きる時間を社会全体で支え、次の世代によりよい未来をつないでいくための考え方でもあります。
老化を理解し、健康を守るための科学を育て、その成果を日常の暮らしや医療、そして政策に生かしていく。
今回の研究は、その可能性を経済という視点から考えるきっかけを与えてくれます。
ロンジェビティへの取り組みは、医療費を減らすためだけのものではなく、一人ひとりが自分らしく生きられる時間を増やし、社会の未来をより豊かにするための投資になり得るのです。
【編集部からのお知らせ:事業化のご案内】
「こもれび抗老化ステーション」では、専門医やスペシャリスト監修のもと、科学的根拠に基づいた抗老化製品・サービスの開発を支援する「ロンジェビティ・共創ラボ」を運営しています。既存事業へのロンジェビティ視点の導入や新規事業化のご相談は、下記よりお気軽にお問い合わせください。
参考文献
Felizzi, F. (2026). “Economic impact of biomarker-based aging interventions on healthcare costs and individual value.” Frontiers in Genetics, 17, 1814599.
https://doi.org/10.3389/fgene.2026.1814599
Belsky, D. W., et al. (2022). DunedinPACE, a DNA methylation biomarker of the pace of aging. eLife.
※DunedinPACEの開発・妥当性に関する基礎研究。
Mak, J., et al. (2023). DunedinPACEとフレイル指数の進行に関する研究。
※本論文のモデルが参照した、エピジェネティックな老化速度とフレイルの関係に関する研究。
Waziry, R., et al. (2023). CALERIE試験におけるカロリー制限とDunedinPACEの変化に関する研究。
※本論文の介入シナリオの基礎となった研究。
Hoogendijk, E. O., et al. (2019). フレイルと医療費の関連に関する研究。
※フレイルの有無による医療費の差を推計するために参照された研究。
この記事を書いた人
桃井 里奈(編集長)
1978年生まれ、京都府出身。看護師として京都市内の病院に8年間勤務後、上京。東京都内の総合病院にてICU(集中治療室)、NICU(新生児集中治療室)、手術室での高度急性期医療に従事。看護師プリセプターとして後進の育成にも尽力する。
臨床現場での経験から、既存の制度では対応困難なニーズを痛感し、24時間対応保育所や自費訪問看護ステーションを自ら立ち上げた起業家としての側面も持つ。
現在は、訪問看護の発展を支援する総合Webメディア「いろいろナース」および、抗老化とロンジェビティ(長寿科学)の実践をガイドする「こもれび抗老化ステーション」の編集長を務める。医療現場のリアルな知見と最新のロンジェビティ理論を融合させ、日本人の健康寿命延伸に寄与する情報発信を行っている。
【医学監修】西嶌 暁生
(銀座こもれびクリニック 院長 / 形成外科専門医・医学博士・MBA)
形成外科専門医および医学博士として臨床・先端医療に携わるとともに、MBAの視点を活かした持続可能な医療・ヘルスケアの領域に取り組む。「単に長く生きるだけでなく、より良く生きる(ウェルビーイング)」を医療理念に掲げ、銀座こもれびクリニックにて患者一人ひとりのQOL向上と健康寿命延伸を実践。本メディア「こもれび抗老化ステーション」では、医療・長寿科学の視点から専門的な知見の提供や記事の医学的アドバイスを行っている。

